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自分の見た目を好きになるために、自撮りを50日間とってみた
自分の見た目が好きか?と聞かれると、好きではなかった。 子どもの頃から見た目に関しては、ずーっとコンプレックスを持ってきた。可愛くないだのブスだのという言葉は、わたしがおばさんになるまで言われ続けた。 ブス。背が高くて可愛げがない。髪が短くて男みたい。もっとニコニコしろ。スカートはけ。太すぎ、細すぎ、女の子らしくない。飲み会で対応が悪いとそれもブス。交差点で止まった車から言われるブス。言われ続けるブスという呪い。ルッキズムにさらされて育ってきた。 人から見た目について常に評価されること、ブスの一声に「そうっすね。」と薄笑いしてやり過ごすことが当たり前に育ってきたのだ。すごく傷つくのに、それをないものとして処理する毎日。(当たり前だけど、女同士でもそれはある。「あの子ブスのくせに。」にみたいなあれ。それもかなりしんどい。) いつの間にか若い女ではなくなり、他人に顔面をどうこう言われないだけの年齢になったけど、ブスを引きずったまま。心の内側では「いや、わたしなんか。ブスですから…」をひきずっていたのだ。 そんなあるとき。急に写真データの移動にすることになった。何千枚とあるデータを削除したり保存したり。そのデータの中に1番ブスブスと周りから言われていた学生の頃の写真があった。 当たり前のように、ブス呼びされていたころ。当然、写真に良い思い出は全くない。見る度に凹んでたな…と、思い出して全消去する前に写真を見てしまった。そして、驚いた。 その写真の中にいる自分は、特に美人ではないけど、ピカピカしている。ブスかと聞かれると?美人ではないけどブスではない。若く、生き物としてエネルギーがあった。 そんな10代〜20代前半の自分を見て「今より全然エネルギーがあるのに、『ブスですみません』と卑屈に過ごしていたのか…なんだそれ。」と、なんだか悲しい気持ちになった。 その悲しみは頂点をすぎると、怒りに変わった。 どうして雑誌に出る数万人に1人の可愛い人と比較され、けなされたり落ち込んだりする必要があったんだろう?って。オリンピックに出られるほど足が速くなくても何も言われないに。 全くもって無意味だった。 そして、もうブスをセルフイメージに持つのをやめようと思ったのだ。「いや、ブスじゃないです。わたしきれいですから。」と、強く言えるようになりたい。ボディ・ポジティブが体型について...
note 文体とは
note を愛用していた私だけど。 私の書くものは一体note文体なのだろうか?そうだと言われたらいや違ういますよ!と思うし。そうじゃないと言われたらそうですよ!と思うし。よくわからない。自分語りっていうとこではそうなのかもねとは思う。 描いてるものと反対のものを描きたくなる。 線の太いパキッとした絵を描いていると、その反動で休憩には細かいものを描きたくなる。絵を描く人だと良くあることだと思うけど、絵を描いて、その休憩に別の絵を描く。その時には仕事の絵と違う絵を描く。 これがもし料理が好きな料理人だったら、ずっと料理を作ったり。パズル作家が作る合間に人のパズルを解いたり、作家が小説の合間に別の小説を書いたりするのだろうか? しなさそう。なんとなく。 高田明美っ子なので。影は紫。 下の方の絵はモデルがないと描けない。 あと、Twitterのspaceでイラストレーターが「細部を描くのが好きだから、最大限画像サイズをあげてる」というようなことを仰っていて。細部ね・・と思いながら描いたら楽しかった。急ぎでなければいくらでも描きたい。 散歩に行って、mocriで人と話していたら突然のヒョウからの土砂降りにあった。雨降りそうだなと思ってレインコート(防水のウインドブレーカーってなんていうの?_を着ていたので良かったけど。びしょ濡れになった。そして家に帰ると、家は家でバタバタしていた。そんな日もある。 そのあと、人のspaceをラジオがわりに聴きながら、気付いたら寝ていた。 space開いてみたけど、「これは。。誰か呼ばないと一人?」ってなった。1分くらいでしれっと終了。なんだろう、不特定多数が聞いてる状態で誰かと話すのと、mocriみたいにクローズでやるの。どっちがいいだろう?と思うと、やはりクローズかなぁ。うーん。わからない。今度誰かを誘ってやってみよう。でも、人の話を聞くのは面白いんだよなぁ。インタビューというか、知っている人でも普段はしないその人の話を聞くのは面白い。意外に知らないことだらけだ。 その前に、以前とったpodcast を編集しなくては。 次回音声を編集してYouTubeにあげるまでに私がしていること
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